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沖縄自治研究会

沖縄自治研究会

第4回定例研究会 下

○島袋純氏  島袋です。
 課題というところで疑問点があるので、それについてちょっと覚えている範囲で、僕はG2の議論にも参加していたのでお答えしたいと思います。

 これは多分、仲地先生が発案された案だと思うんですね。現行法上は、総務大臣に対して審査要求し、それで紛争処理委員会だったかな、何かそれを設置してあって解決するということで、その後、多分、裁判に行くという制度だったんじゃないかと思うんですけれども、沖縄県の市町村と自治州の関係においては、これは適用されないという発想だと思うんです。

 そして、だからこそ州知事から独立した独立規制委員会のような1つの委員会を設置して、そこで市町村と州の間の揉め事を準司法機関で解決していくと。そういう仕組みだったと思います。ですから、沖縄州内の市町村と自治州との紛争において、総務大臣に介入させない。関わらせない。そのかわりに、独立的な委員会として自治紛争調停委員会をつくって、そこに解決をゆだねるという仕組みだったと思います。

○宮里大八氏  今の点で、これは独立した形で置くというのは、それはもう常に委員会みたいなものを置いておくということですか。それとも紛争ができた時点で委員会というのを立ち上げて、その場でまた議論してあるというイメージなのですか。

○島袋純氏  多分、県の土地収用委員会とかあんなイメージです。土地収用委員会は、一応、知事が会長を任命するじゃないですか。だけど、独立して職権を行使していますよね。それで公正的な、しかも準司法的な機関で、今はもう権限はもはや顴骨奪胎されて、ないようになってしまいましたが、もっと権限があるイメージです。

 だから、おそらく恒常的に開かれる。沖縄は、でも一応、この機関委任事務の問題があるときにだけ開かれることだってあるんですけど、紛争が多い場合は恒常的になっていますよね。だから恒常的な機関と考えていいんじゃないですかね。


○宮里大八氏  はい、ありがとうございます。どうぞ。

○玉城和宏氏  組織の設定に関して、僕もちょっと社会科学の論文みたいなやつを書き出しているので、ちょっと一言言わせてもらえれば。

 組織というのはニーズがあって、ニーズに応じて組織は再編成されていくべきだというふうに考えています。だから、ある時点でそのニーズが終わったときに、それは変えられる。リフォームできる。つまり、むだな組織を機能的場所には置いておけないという、そういう基本を入れる必要があって、そのへんの変更可能性も、もし沖縄の理想的組織形態の一部分として取り入れてもらえればなというふうに思います。


○島袋純氏   組織には組織の自己保存本能があって、ニーズを無視して存続し続けるということがあるので、それでそのうちつぶれると、にっちもさっちもいかなくなってしまう。

 ちょっと消しましょうね。ついでなので、この図式は行政学でも出てくるんですよ。これに近い図式ですね。高度化、複雑化、多様化、高次化という話をしていましたが、単純化なんですよね。こういった図式。多分、バーナードだったんじゃないかな。ちょっとだれだったか忘れた。最近はもう……。

 こうやって一番下のレベルだと複雑ないろんな内容を持った、しかも1人1人の顔、いろんな実情をもった情報があるわけですね。1人1人の生活は全然違うし。ところが、それが上の段階に上がるときに情報が単純化されていくんです。だから、職員がもらう情報というのは、もうちょっといっぱいあった情報をいろんな人があったのを、これは単純化して限定して、みんなの情報はみんなの家庭の事情とかはわからないので、極めて単純化した情報を上げていくわけです。

 そしてさらに、市町村の職員から国に上げるときに、より抽象化された単純な情報に転化されるわけですよ。これは情報の単純化というルートが行くわけですね。国は何をするかと、役人というのは何をするかというと、相手を抽象化された情報を、抽象化された情報をより抽象的に立法という形で、これで法律をつくっていくわけです。今度はこの法律をつくって、逆にこれを各事情、いろんな具体的な事情を持った人に、今度は法律という形で押しつけていくわけです。ただ、ずっとこの動きをやるわけですよね。この動きをやるわけです。

 だから、情報の単純化というのは、基本的にヒエラルヒー組織。こういった階層制組織の中では必ず起こることなんです。しかも、階層制というのは1つの情報の単純化の組織であるし、それは情報の多元的な様態に対応する組織の関係、これは常に往復しながらやっていくという組織、形態ではあるんです。

 ですから、今、イメージしたのは、ここにコンピューターを置くということは何なのか。ここにコンピューターに置きかえるということはどうなのか。要するに、一切の情報を全部こっちが持ち得るということです。あるいは、こっちが一切の情報をすべて細かい具体的な情報まで持ち得るということです。極端に全部の情報を国の官僚が持ち得るということです。

 だけど、人間の問題は頭の処理能力であって、全部が全部読んで、全部読んで手に入れるところで処理できないんです。法律をつくれないんです。これを自動的にコンピューターに入れて法律をつくるようなプログラムはつくれるか。こんなのつくったら脅威ですよね。コンピューターによる支配の世の中になってしまうじゃないですか。だから、どんなにPCが発達して、結局、PCがいろんなことをできても、PCが自動的に単純化するようなシステムをつくりあげたら、それこそ恐怖のPCによるファシズムみたいなことになるわけです。

 だから、そこで重要なのは何かというと、結局、人間の世界はしょうがないんですけれども、人が集まってPCネットではなくて、PCをやったら全体意思というのが出るわけですよ。全体意思、ここでルソーになってしまう。全体意思が出るんです。要するに、各人々の意思の集計。全体意思って、微分積分がちょっとよくわからなくて、僕はこれで高校を卒業、もう少しでできないところで、せっかく大学を合格しているのに落ちそうだったんです。

 基本的に全体意思というのと違っていて、今やっているのは総意ですね。総意というのは、ゼネラル・ウィルですね、総意。これはどうやって生じるか。これがどうやって生まれ得るかというときに、ここで要するに、相互の情報共有、価値観の共有、今の言葉でハーバーマスのコミュニケーションだとか、そういうのは基本的にみんながお互いに顔と顔を会わせ合って、話し合って、議論し合って、議会が重要な役割を果たすわけですけど、そこで総意が創出されて、それが法律になっていくという仕組みがどうしても必要です。

 だから単純に、PCの問題でPCで簡単に解決いくわけではなくて、政治的な場、状況、それから市民相互が公共的な問題についてお互いに意見を共有し、情報を共有し合う、総意の創出の工夫、これがどうしても必要なんです。もしかしたら、そう言っているのも単純化するかもしれない。単純化の作業の一環かもしれないけれども、総意でもって政治的に決着していくということです。

 これを自動的なシステムにして、情報が全部上がるようにして、勝手にトップが決めるというのが今の官僚制の中で、日本の多くの官僚がやっていることですけれども、市町村の中で総意としてこれをつくって、総意で実際に市町村を動かしていくというシステムにしたほうがいいと。
 それから、国は国レベルで総意をつくっていくというシステムですが、官僚制の原理と、やっぱり情報を共有し合って、市町村、市民みずから総意を出していくという工夫と、そういう安心できる仕組みというのは政治的な仕組みなので、そこはちょっと区別して考えていったほうがいいのではないかというのが私の意見です。


○佐藤学氏  PCクラスターのたとえでいくと、今の階層制との違いは、多分、1つの階層内での情報のやりとりが、非常な高速で、大量に行われるネットワークがある。また次の層との情報のやりとりも、ものすごく高速で大量に行われるということだと思うんです。

 だから、今よりもはるかに、例えば自治体間、あるいはそれよりもっと住民に近いところ、コミュニティ間の情報交換等が活発に、頻繁に、大量に行われて、またその異なる層の間の情報交換、意見交換も現在よりもはるかに大量に頻繁に速く行われるというイメージで、それで今、島袋さんがおっしゃった総意形成という上で、今よりもはるかにそれがより多くの、あるいは質の高い情報をみんなが共有できるという、そういうたとえだろうというふうに思ったんですけど、それでよろしいでしょうか。

 ですから、先ほどのご提案では、例えば年に1回や2回の情報交換というお話もあったけど、PCクラスターのたとえでいくならば、それをもっと日常的な形で、あるいは恒常的につながっていて、空いている時間に行うような形でしょう。自分の素人知識だとPCクラスターというのはコンピューターを空いている時間に使ってしまうというやつとは違うんですか。それもあるわけですよね。だから、恒常的につながっているというたとえでいくならば、絶えずそういう情報のやりとりがあるような形を想定するのかなと思ったわけです。

 それで、この補完性の原理を説明してくださった図と、それから先ほどの最初のセッションの、最初の議題だったこととから考えていることがあります。補完性の原理について、ここにいる私たちの間で、それが何であるかということの認識は共有できていると思うんです。

 自分の中でもう1つよくわからない、どう折り合いをつければいいかよくわからないのは、ナショナルミニマムの考えと、補完性の原理の関係です。補完性の原理によると、住民にとって自分たちで賄えることは、自分でやって、できないことはそれぞれ次の層の政府がやっていくということになります。その総体として、例えば、沖縄県の経済の弱さを考える時に、ナショナルミニマムを想定し、その達成が制限されているというような議論になったときに、全体として財源移転が期待されるということと、補完性の原理との関係を、どのように理屈の上で折り合いをつけるのかが、自分の中でいま一つよくわからない部分があります。

 そもそもここで暮らしている者が自分たちでやっていけることを前提としてということでいくならば、ナショナルミニマム自体が、ナショナルミニマム設定ということ自体が、その考え方とは違ってきているのではないか。一方で、当然、1つの国が独立するわけではないんだから、1つの国の中でやっていく以上、幸福な安全な生活をする上での水準整備というのは必ず行わなければいけない。

 そこのところを理屈の上でどのように折り合いをつけるのかなというのは、自分の中でいま一つよくわからないところがあって、要するに、ナショナルミニマムのことを多分、逆手にとってだということになると思うんだけど、沖縄県の県民所得は国平均の70%しかない、だから、もっと公共事業をよこしてくれという形になってしまうじゃないかと。

 そうではない理屈を、どのように作り出すのか。ちょっと自治州内の市町村との関係とちょっとずれてしまったんですけども、補完性の原理というところで、どのように考えたものかが、自分の中で解決がついていないということなのです。


○玉城和宏氏  総意ということを島袋さんが言ってくれたので、ちょっと組織の話も、皆さんの思考の中に1つ入れてほしいのは、我々は生きているのだということですよね。まず最低限生きていること。生きていることから生物は進化していくわけです、基本的には。例えば、細胞なんか、小さい微生物、バクテリアなんかは、環境が悪いところには環境が悪いなりに彼らは生活している。環境がよくなればよくなるほど高次化していきます。つまり、いろんな意味で発展形態をつくっていくわけですね。しかし、基本的には生活のための形態があって、最低限ということは、彼らが互いに生きていけるだけの、基本的に自立して生きていけるだけの環境ですが、彼らはそのような状況でも、変化するための機会を窺っており、そのため機能(様々な遺伝子)を内部に確保しておく必要があります。 付け加えてもっとさらに高次化するためには、どういう作用が必要なのかなというのを、もちろん考えないといけない。だから、作用に関連して、私は次のような概念を基にしてやっているのですけれども。散逸構造(dissipative structure)というものです。それは、例えば、ロウソクを考えたらいいのだけど、燃料とエネルギーの移動過程で炎の形が作られますが、大雑把に言って物質やエネルギーが移動していく過程でつくられる構造体。私はこれを散逸構造的現象として扱っています。

 もちろん、人間の生活もそのような散逸構造的現象形になっているんですよ。エネルギーや物質を取り入れて形をつくって、消費された結果としてエネルギーや物質が排出される。それは取り込まれるエネルギーが大きくなれば、形態はもちろん大きくなりまし、ロウソクの例で言えば、もしいろんな複雑な作用、例えば、スペースシャトルのような重力が感じられなくなるような場所に持っていくとか、そこで部分的変動磁場とかをロウソクの炎に作用させるとかをすると炎が変形してきます。つまり、作用の形に応じて炎の部分が変化してくるわけです。

 そのような作用も考慮すると、実はこれは多様化し、組織が非常にシンプルなものから複雑なものに構造変換していくんです。作用に反応して自動的に出てくる。そのときにはいろんな部分がネットワークを組んでいて、実はミクロのレベルのネットワークを組んでいて、そのネットワークの総体で構造という部分、ストラクチャーという部分が出てくるんですよ。それが、島袋さんが今言われた、多分、総意だという、そういう発想に解釈できるんだろうと見ているわけです。

 だから、基本的にこういうパソコンのこの形の中だけでとらえてしまうと、我々の発展形態というのを見逃してしまう。だから、さっき島袋さんが言われた総意という部分の方向性、それは多様性を持つことです。だから、単なる積み上げ式の関係だけだったら、ここにある1つの情報が、これが1つ、大きい構造物もアリの一穴から崩れるのと同じように、ここの部分がちょっとおかしかったら、実はこの構造が壊れてしまう可能性だってあるわけ。

 それがフラクタルであるとか、いろんなカオスであるとか、複雑なネットワークの絡み合いがあるほうが、組織は安定する。 だから、その意味ではこの情報を、佐藤さんの今の質問の中にもあると思うんだけど、その情報が常に共用されている、共有され相互作用をここで起こしているという状態をもキープする。情報を常にやりとりしながら、あそこにお年寄りがいる。お年寄りの状態はどうだろうとモニターしながら、お年寄りの声も聞きながら、関連情報をどんどん共有してあげる。

 そうすると、お年寄りの近くにだれだれさんが今日はいるよね。状況を見に行きましょう。今日はだめだけど、次の日はこの人が行けるよね、状況を見に行ってもらいましょう。つまり、情報の共有化によって、実は組織形態が高次化されていくんです。その情報の共有化によって、次のステップに、新しい重要なステップごとに構造が自動的に変わっていく。例えば、組織の情報を共通化した会話で、「じゃ、ちょっと大変だよねと。どうにかシステム変えない? 」ということが、今度は組織の編成に変わっていくわけです。組織体として変わっていくわけです。

 だから、生物の基本というのは全部、周りの状況に応じて少しずつ少しずつ変わっていくというエネルギーを持っているわけです。我々も生物だから、組織体をこういう変化しない構造ばっかりにとらわれるのではなくて、理想的に言えば、古代ギリシャの自由人のように、みんな平等で偉い人にも文句が言えて重要だったら取り上げて変えてもらえるような組織体、そのぐらいの発想があってもいいんじゃないかなと、こう思います。


○島袋純氏  学さんの質問にどうにか答えようと思うんですけど、おそらく戦後、新しい憲法ができて、戦後の始めにですか、イギリスのナショナルミニマムの、例の原理が導入されたときに、基本的にはそこで言う、生物としての生命の維持プラスアルファ、文化的な生活というのは、要するに教育を受ける権利だとか、本当に基礎的なことだったのではないかなと思うんです。

 ところが、60年代、高度成長期ずっと通して、いろんな国土交通省とか、いろんな中央省庁の基礎的なレベルを保障して、プラスアルファは全部自治の領域ということではなくて、国が相当高いレベルまでナショナルミニマムだ、ナショナルスタンダードを設定しまくって、それで強制的にそこまで事務事業を押しつけていくと。そのシステムがずっとできあがっていったのが、60年代や70年代じゃないかなという気がするんです。

 ですから、ナショナルミニマムがおそらく最初想定していた水準から、相当高いレベルの水準になってしまう。なんでもかんでもナショナルミニマムだということで、もう運輸省から国土交通省から、生存に関わりないような、どう考えても奨励的な事業にしか思えないようなレベルまで、ナショナルミニマムだという名目のもとに予算が極大化し、肥大化し、基本的に今、半世紀に入ってポスト・ウェルフェア・ステート(福祉国家後)とか言うんですけれども、いろんな施策をもう一度原点に戻って、ナショナルミニマムということをもうちょっと低い水準で、人間がどうにか健康で文化的で生きていける、最低限の水準に落としていって、プラスアルファはローカル・オプティマムだと。地域それぞれにできないかというようなことに、どうにか構造的な転換をもう1回図っていこうというのが、肯定的に見れば、肯定的には今の時代じゃないかなと。

 今、ローカル・オプティマムというと、実をいうと松下圭一が言う、シビルミニマムと似ているような話で、市民それぞれの自治体ごとにシビルミニマムというのを設定し得るという発想ですよね。ですから、そういう裏返しの発想で言えば、ナショナルミニマムということをあまりにも高く上げすぎたために、今、シビルミニマムをできるところは、さらに余力のある東京しかできないという話になってしまったんですが、本当はもっとナショナルミニマムが低い水準で設定されていれば、シビルミニマムはすべての市町村において設定可能なはずなんです。

 設定可能どころではなくて、ナショナルミニマムを達成するための財源さえないというのが今の状況ですよね。国が設定したナショナルミニマム。だから、それをもう一度見直す時期に来ているんじゃないかということは確かに言えているかもしれないなという感想は持ちます。

 そしてもう1点は、このミニマムというのをどこでどう決定するか、どう水準を決めていくかということに関して、今まではさっき言った話ともつながってくるんですけど、法律、政令、省令ということで、実質的には本当にナショナルミニマムを現場でこういった保護給付をすることによって達成できているのかどうかなのかという、情報は基本的にわからないわけじゃないですか。さっき言った情報システムの中でつくるから。国は画一的、一律的にこういう状況になったら保護給付しろという形でやっていくわけです。

 だから、基本的にはナショナルミニマムと言うけれども、非常に硬直した給付の水準とか、枠組みだとか、給付条件、介護保険の制度にしても、そういう融通がきかないような制度になっているわけです。

 だから、実質的には補助金がなくなっていくという部分もあるんですけれども、市町村に実際のニーズに見合った提供の仕方をすれば、ナショナルミニマムに関しても国が法律で決めたから、満足度が向上しようがしまいが、これだけは給付するという形ではなくて、本当に満足度に応じた給付というのは達成できるのではないかと。

 そっちのほうが人々の満足度だとか、あるいは結果としての人々の暮らし度への満足度という意味でのナショナルミニマムというものの上昇につながっていくのではないかなという気がしてしょうがないんですよ。

 そのためには、どういう原理が必要かということなんですけれども、基本的に僕はやっぱり松下圭一的な補完性の原理に対する解釈の仕方しかないかなと。つまり何かというと、人々には社会を形成し、そしてさらに政府を形成するあらゆるレベルにおいて、政府を形成する基本的な権限があると。「複数信託説」と彼は言うんですけれども、その中で、人々の政府を形成する権利に基づいて、市町村はつくられていると。それから、自治州はつくられていると。国はつくられている。

 結局、国から市町村がつくられているのではなくて、人々が自分たちの暮らしをよくするために、暮らしていくために、ある一定の権限を譲渡して政府をつくった。その1つが市町村政府にしかすぎない、その1つの政府が自治州政府なんですよ。それは人々の暮らしを守るという都合に応じて、市町村にこれだけ権限を与えよう。自治州にはこれだけ権限を与えよう。

 沖縄の場合は、国はあまり信用できないから、国はちょっとしか権限はあげないでおこう。だから、人々の暮らしの実際の守るというレベルから応じて、複数信託していくわけですよ。政府をつくって。だから、松下圭一はそういうことを言っているし、実を言うと、それを徹底したら、最後まで松下さんはどうしても絶対言わないんですけど、独立したっていいじゃないかという、本当は発想になり得るわけですよね。

 あとは、最終的には最終的な主権と、政府を持つ権限と主権とどう絡んでくるのと言われたときには、松下先生はあんまり答えてくれないのですが、最終的には僕の場合は、やっぱり社会的な一体性とか、共同性とか、社会を守るというレベルであれば、そういった裏づけがあれば、それは独立的な権限、主権を持つ権限さえも付与されてしかるべきだと思っているわけです。

 だから、そこがもしかしたら沖縄の市町村という単位よりも、自治州というレベルであれば、社会的な一体性、社会的を守るという強烈な意思、総意、そういったものが創出され得るのではないかということで、最終的には独立する権限さえ持っているというふうに解釈したいんですが、それはおそらくこれは潜在的に自治州をつくる根本にはあっても、この中でそれを入れ込むことはできない。

 ですが、おそらく松下圭一的な複数信託の理念というものは、基本的にあってしかるべきで、それに基づいた補完性の原理でなければならないのではないかなというふうに思っています。


○佐藤学氏  たまたま今週1年生のゼミで松下先生の本を読んでいて、出てきた話です。例えば、10万円で家族5人が年に2回山に行けるとすると。それを年1回にして残りの5万円をみんなで出し合えば、水泳プールだったら作れるだろう。そうすれば、1年中、みんなで集めたお金で作ったプールを使える。政府をつくるというのはそういうことであって、個人、1つの家計ではできないことでも、それをみんなで集め合て貯めて、まとめて財源とすれば、みんなが使えることにそれを充てられるようになる。それが市町村、あるいは国に至るまでの政府の原理だというお話でした。共和制、共和というのはそういうことなんだということを松下先生が書かれています。

 今、島袋さんがおっしゃったことが、非常に腑に落ちるということを前提として、このナショナルミニマム、要するに何が最低文化的な最低水準かということを、自分たちで見直そうという方向になる。だから、沖縄県の経済力が弱いと言ったって、飢え死にする人はいないわけで、そうすれば、もう国の法律で一律決められていることを、全部やらなければいけないということでもないのかもしれない。先ほど藤中さんが前の議題のときにおっしゃっていたことにつながるかもしれないけれども、これを見直すということは、何をあきらめるかという話になるのかもしれないし、私たちの研究会で繰り返し出てくる議論ですけれど、経済的に何をあきらめれば結果はどうなるのか、あきらめることで何が達成できるのかという話にまた戻るのかもしれないなと、今思っていた次第です。

 だから、「痛みを伴う」という言葉をもう最近全然聞かなくなりましたが、もしかしたら自治州を考えていこう、あるいはナショナルミニマムの見直しをすることは、そこのところを直視しないといけない、そこを真っ向から議論することも含まれる。その結果として、もしかしたら、満足度で言えば、今、島袋さんが言っていたように、もっと高い結果が出るのかもしれないという気がします。

 ただ、最初の段階として、見かけは厳しい状況を進んで受け入れるようなこともしなければならないのかもしれないと思ったわけです。


○島袋純氏  とってもやっぱり共通認識を持っておかないといけないことは、これは沖縄の市町村は地方自治法の適用の枠内におさめるのか。それとも憲法95条による沖縄特別自治法をつくって、そこへ適用させていくのか。その問題ですね。これを明確にしないといけない。

 98年の自治労の案は、それは沖縄の市町村も、沖縄県も全部適用除外と、それで特別自治法をつくって、沖縄の市町村に関しては自治法の適用除外、沖縄自治法に基づいて運営しろという説明だったんです。

 これについてはどうするのか。非常に重要なんですが、要するに例えば、スコットランドモデルって、スコットランドの主権国家の中の一自治政府みたいなものですけれども、要するに交付税、交付金の権限もスコットランド政府が持っている。それから、スコットランド市町村の自治法に関しても、スコットランド議会が制定できるということで、全くロンドンに行く必要がなくなってしまったんですよ、スコットランド市町村は。

 それと同じ状況をつくるのかどうか、といった問題ですね。それはちょっとやっぱり共通認識にいったほうがいいかもしれないです。地方自治法をどうするのか。


○新崎盛幸氏  今の話ですけども、市町村を基礎的自治体という位置づけ、そこから自治州を基礎的自治体の補完的な政府というふうな積み上げ方の発想でまとめていくのであれば、やはりどうしても地方自治法とぶつかってしまう部分が出てくると思うんです。その意味では、地方自治法の適用外という形にしかならないのではないか、というふうに思っています。

 そして、市町村と自治州の関係なんですけれども、補完的な自治州政府という意味合いであれば、自治州議会は、市町村からの代表だけでいいのではないか、というふうな発想も実は持っているんです。

 要するに、市町村が「こういう事務事業を自治州政府に任せましょう」というのは、やはり市町村から積み上げていく話ですよね。その事務事業にそって自治州政府組織に対する財政的な裏づけが伴いますし。つまり、自治州政府は国との財政配分の折衝の窓口にはなりますけれども、そこに配分された財源というのは、基本的には自治州政府のものではなくて、市町村に配分される財源だということです。

 そして、自治州政府に任す事務事業に対しては、各々の市町村から幾らずつ負担しましょうという形で自治州政府に対して財源を移譲するというイメージがあるんです。そういう意味では、どうしても地方自治法の適用の範ちゅうにはおさまりきらないような自治のシステムが出てくるんじゃないか、と思っています。


○久高氏  ちょっと少し、今まで経験したというか、聞いた話ですから、ちょっと耳に置いていてほしいんですけど、たまたま私は前に市町村合併の担当をしていたという話で、確か住民説明会のときだったと思うんですけど、いわゆるこういう組み合わせですよとか、いろいろ話になったときに、7つ、8つだと、あの市町村が嫌だとか、こっちが嫌だったという話になるのであって、さっきの2つ、3つではなくて、沖縄は市町村はあるんだけど、1つにすれば、こんな問題は何も解決するじゃないかという話が、そういう場合は県も、要するに市町村も、何もないと。

 こっちで言えば、これは今の市町村と自治州というのは1つの串さしで、市町村民ではなくて、我々全部州民という形になって、共同体意識が全部出てくるのかなという感じで、そうすれば、考えてみたら、財政的なものとか、共同体意識ではどうなのかなと。これはまた自治法とかいろんな絡みがありますけれども、そういうのが私の中に非常に頭にこびりついて、何か今、我々はあくまでも何々市、何々村、何々町とあるけれども、なるほどなと、こういうこともひとつあってもいいのかなと、私はちょっとぱっと今、気づいたものですから、以上です。


○島袋純氏  島袋です。
 地方制度調査会、あるいは中央でのさまざまな今の調査では、概念的に基礎自治体という概念を使うんです。基礎的自治体ではなくて基礎自治体なんです。これは規範的なある一種の政治的な意思まで含んだ概念なんです。これは何かというと、基礎的自治体と基礎自治体はどう違うかと。

 要するに、中央分権推進委員会が推進した市町村合併の究極的な目標が基礎自治体なんです。何かというと、今あるフルセットのすべての仕事ができる自治体という意味なんです。基本的に今やる、仕事ができると言ったって、人口がある程度、要件が大きくないと、10万人ぐらいないと、普通できないわけですね。人口が小さければ、とても苦しい。特に人口が1万以下になると、今のフルセットの市町村道の整備から、公民館から、小学校の維持から、中学校の維持から、全部というのはできない。

 だから、基礎自治体になってくださいよ、そのための合併ですよという、強制力さえも持った、それは戦略的な言葉なんです、基礎自治体という言葉は。いや、違いますよ。基礎的自治体というのは、つまり一番下の自治体という意味だけですから、これは市町村という意味だけなので。基礎的自治体という概念には、そういった言葉は含まれていないわけです。一番下のレベルの市町村という意味です。

 ここで沖縄県としては、基礎自治体を市町村に要求するのか、合併せよということになりますから、そうではなくて、フルセットの日本の、今、中央で考えていた基礎自治体という発想ではなくてもいいから、とにかく市町村というものをつくって、住民にとって身近な仕事をさせていくという意味で、あの概念は使わないで、我々は別の意味での自治体の概念を、あるいは役割というのを持ってくるのか。そういった、実は選択があるんです。

 その中で市町村の姿というのは、今、那覇市レベルの市町村から、多良間みたいなところも同じ市町村。これをどういうレベルで統一していくのかな。それとも統一しないで、多様な仕事ができる、いっぱいフルセットでできるところもあれば、できないところもあると。多様な段階で市町村というものを設定していくのか。

 そういった、実をいうと戦略的な問題もあるんです。だから、日本の今の仕組みは基礎自治体で全部統一していくと。だから、十把一絡げに全部合併せよと言っているわけです。沖縄自治州内で、沖縄県内はそれを求めないで、多様なレベルの自治体、市町村というものを認めていくのか、容認していくのか。その中で実をいうと、那覇市に対しての補完事務と、多良間村に関する補完事務は質が全然違ってくるわけです。

 おそらく、多様性を認めるんだったら、多良間という自治はできることはこれだけ、県が補完的な機能を果たすのはこれだけということでやっているわけです。今のある市町村を、52ある市町村を、はなっから、これを基礎自治体とするというのであれば、思い切った財源の移転、これをやらないといけないわけです。思い切った財源の移転。それでいくのか。人口が1,000人しかいないけれども、基礎自治体なんだという認識で無理やりお金を再配分していくのか。そういった戦略もあるわけですね。そこをある程度、実を言うと見きわめないと、市町村と県の関係というのは明確にならないんです。

 そういった問題があって、どうすればいいのかと。私の場合は、もはや市町村と同じ市町村というレベルではしないと。多良間とか渡名喜とか粟国とか、やっぱり特別な自治制度にするべきではないかな。そこに対しては県が補完するべきではないか、多くの部分を県が補完していくべきではないかという、一応見通している意見は持っています。

 それに対して率先的に役割を果たせるのが自治州ではないかと。県の場合は、今、全部国が合併せよと言ったら、そのまま多良間まで強制的に、与那国まで強制的に、何の考えもなく、何の意思もなく、県の意思もなく、そのまま押しつけようとするわけです。それでは市町村は守れないのではないか。あるいは人々の生活も守れないのではないかという考えです。


○宮里大八氏  1つだけ市町村の方々に、ほかの発言されていない方に聞きたいのですけども、今、多様なレベルでの基礎自治体なり、小さい村なり、町村は自分たちでそれをできる範囲でやるという考えで、多分、それをもとにやっていかないといけないと思っているのです。

 それを果たして町村レベルで合併を、それをしないにしては、それはいろいろな意見があるのですけれども、それを自分たちで、小さいところで小さいなりにやれるというような意識というのは、多分、財源がないとどうしてもそれはできないと思っているのです。

 財政の問題というのは、どうしても切り離しはできないと思うのですけれども、その財政をさっき学さんからもあったように、7割しか経済的にもないと。市町村においても例えば7割ぐらいのもので、サービスを徹底的に効率化と言いますか、市民みずからが、これは市町村に頼らずに自分たちでやるというような話が出てきたときに、果たして市町村の役割というのは、どういう役割になるのかなというふうに思うのですね。

 そのサービスをこちらが今まで提供していたものに対して、市町村の方々はいろいろ意見を言っていたのですけども、逆にサービスは自分たちでやりますと言ったときに、受け身に、全部話を聞いて、そのサービスをどうするかというのを、住民に返すというのを、どういう方法でやったほうが一番望ましいのかなというのが、ちょっと話として聞きたいと思っています。

 自治州と市町村の関係ですけれども、多分、その後で1月の照屋さんの市町村の話に、住民からの意見をどのような形で吸い上げたほうが一番望ましいのかというものを、もしそれで聞けたら、その住民の吸い上げたものを市町村はわかって、それをさらに自治州にどう反映できるかというのが、盛り込めれば、こちらの自治州と市町村の関係でも、本当に住民の意思で自治州というのもありますというのが、うたえるのかなというふうに思うのですが。 ちょっとまとまりがないですけど、住民の意見をどう反映するかというのを、もし意見があれば聞かせてほしいと思います。


○照屋勉氏  合併が破綻になった与那原町の照屋でございます。
 今、島袋先生の話を聞きながら、これだと思いましたね、私は。いや、本当に。もう金もないわけですから、我々ももちろん単独でいくことになったんですが、だから、できることしかもうやれないわけです。だから、今言ったように、多様性を持った市町村合併でいいと思います。それでできないものは、もう州にお任せすると。
 今、ダイヤさんが言ったようなことで言うと、我々がやるべきものは何かと考えたときに、いわゆる先ほどから言っているように、ナショナルミニマムがどんどん膨れ上がっていって、今の状態になったと思うんです。もちろん、それに伴って経済もよくなっていって、税収も増えて、いろんな住民の要望をどんどん聞けるようになって、これだけ行政が肥大化してしまったと。

 だから逆に言うと、もう50年前に戻ると。それは戻って50年前、では役所というところはどういう仕事をしていたのかなと。戻して考えて、その部分をやればいいんじゃないかなと思います。もちろん、職員も少なくなる。職員も当然、当時は我が与那原で言えば、30名とか40名でやっていたわけです。例えば、公園の周りの清掃であるとか、溝を掃除するとか、そういうのは地域の人たちが当然やっていたことを、いつの間にか役所がやるようになって、どこかに委託してさせるというような状況になったわけですから、もちろん、今、具体的にどれだけのものを役所、役場がやるべきかと言われると、すぐは出てきませんが、例を挙げればそういった形で、多様性を持った町村であればいいと、それぞれやることは違うと、それぞれの町村でですね。ここまでできる。我が町、村はここまではやりますと。あとは州にお任せしましょうというような、シンプルにやっていくような形がいいのではないか。そうしないと、もうやっていけないというふうに思います。
 ちょっとまとまりませんが。
(テープ1本目終了)
○森田氏  市町村はどのようにしてやっていったらいいかと、いろいろ難しい問題なんですが、やはり自分たちでできるものは自分たちでやるということで、どのような意見が出てくれば本当にこれは理想的な形だと思うんです。

 そういった中で、市町村は住民の意見を受け入れる状況をつくりだして、それをまた役場だけではなくて、全体の住民が話せる場をつくると。そうでないと、やはり一部の意見だけの話を聞いて決めてやっていくのではなくて、やはりそこの自治体の住民みんなのサービスになってきますので、そういったのはお互いが知った、お互いが納得していかないと、やはりできないことだと思いますので、お互いが話せる場をつくって、またさらに決まったことを全体に情報を流して、広報、インターネットとか、いろいろなものを通してやっていったら、お互いが本当に中身を知って、そういったのは自分たちができることなんだということで理解すれば、やはりそういったようにうまく進めるんだと思います。

 そういった状況を自治体職員もいろいろ考えながら、そういった状況をつくりだすよう、努力していかなければいけないのではないかなと思っております。以上です。


○島仲徳子氏  宮里さんのご質問に対する答えですけれども、自治研究会で学んだことがそのまま答えになるのではないかと思います。

 やはり住民の声を聞く、聞くというか、つかむ仕組みをつくることが重要ではないかと思うんです。ニセコ町だったり、志木市だったりということを私たちは学んできたんですけれども、やはり住民との協働と、よく使うんですけれども、その仕組みを行政がつくらないと、それは協働もできないし、声もつかめないと思います。把握できない。

 具体的にどんなふうに考えていますかというご質問ですけれども、やはり今、宮里さんがつくってくれたシートでは、自治会という組織を出していますけれども、少なくとも那覇市においてはもうこの自治会という地域組織は、これからの自治をやる上ではあまり適当ではないのではないかという印象を持っているんです。

 でも、その自治会にかわる地区委員会みたいなもの、地区の組織が必要だろうと思います。今、那覇市では小学校単位ということを考えていますけれども、地区委員会をつくるし、あと、その地区委員会とは別に、役所に仕事の領域でそれぞれの市民委員会というものがあればいいのではないかと、これは個人的な考えですけれども、自分の仕事に引き寄せて考えますと、やはり行政だけでできるものではないし、市民の皆さんの声を聞かないと、やっぱりうまくいかないというのがよくわかるんです。

 ですから、自分の仕事については、ぜひそれが必要であると考えると、行政全部について、それぞれ環境でも、あるいは中枢の、まさにこのお金をどう配分していくかというセクションにも必要ではないかと思います、その市民委員会が。それを今、志木市がやっているのと同じになるかどうかはわかりませんけれども、各地域ごとに地区委員会、行政のそれぞれの部門に、また市民委員会という仕組みを行政のほうで準備すれば、今よりはよくなるのではないかと思います。以上です。


○新崎盛幸氏  沖縄市で市民懇談会を市が主催で開催して、市長はじめ、部長の方々もオールキャストで全自治会を回って懇談会をやっていたんですけれども、行けるときは僕も行って話を聞いていたんですけれども、市民の声というのが、結構、身近な声ばかりなんですよ、ニーズというのが。

 要するに、「街灯をつけてくれ」とか、「通学路の歩道をちゃんと確保してくれ」とか、あるいは「溝にフタをしてくれ」とか、そういった話ばかりなんです。大型プロジェクトの話なんてほとんど出てこないような感じで、だから、本当を言うと、市町村レベルの行政というのは、身の丈を少し考える時期に来ているんじゃないかという感じがします。この昨今の財政状況をみると、市民があまり求めていない方向に大きく膨らんでいる部分がかなりあるのではないかという気がします。

 この市民懇談会では後日談がありまして、市民懇談会を終えた後に、市長がいきなり嘉手納町から駐機場の移転を表明して、その地域の住民は「市政懇談会ではこんな話は出てこなかったじゃないか」と、逆に何か不信感を募ってしまった。だから、そういう重要なことを投げかける対話ですか、それはやっぱり必要じゃないかと思いますね。


○島袋純氏  もう一回りしたんですかね。島袋ですが、僕は基本的には自治州の特別法、95条の特別法に市町村の基本的な仕組みについて言及があって、要するに地方自治法、全国に適用される地方自治法の、明確な適用除外にしたほうがいいと思うんです。それを書いたほうがいいと思います。要するに、98年の自治労の方式です。それをやったほうがいいと思います。

 そうすると、これは細かい地方、今の現行地方自治法の適用が除外されるわけですから、基本的な自治体の仕組みに関しては、全部、自治基本条例で各自の、各自治体が発案して、自分たちでいろんな今までの懇談会の手続きですとか、あるいは市民委員会ですとか、あるいは地域自治組織ですとか、そういったものもすべて自分たちで用意して、自分たちで制度設計していくと、それがどうしても必要になるという大前提ですね。そういう仕組みにしたほうがいいと思います。

 それでよくわかりませんが、自治労は一生懸命、こういった今の現行地方自治法はあまりにも細かすぎるので、大綱化したような、枠法的な地方自治法に変えろと言い続けてキャンペーンをずっとやっていましたが、最近ちょっと元気がなくてやっていないですが、それをやはり沖縄では基本的に明白に地方自治法の適用除外、もちろんいろんな揉め事があったら、地方自治法に準じて解釈するという、そういった言葉をつけておけばいい話であって、原則として自治基本条例によって、各自の、各自治体の権力構成が決まると、手続きが決まるという方向にしないと、沖縄自治研究会で一生懸命、自治基本条例、市町村モデル条例、あれは現行地方自治法が、という大前提ですけれども、さらに一歩踏み込んで、議会の内容、住民自治の具体的な組織、それまでも自分たちで住民たちがつくれるという方向に、将来的に発展的な形態になっていってほしいので、沖縄自治研の成果を生かす上でも、現行地方自治法の適用除外をし、そして自治州の特別法の中でそのことを明言するという仕組みがいいんじゃないかと思います。

 そうすれば、これからこの市町村モデル条例が果たした役割というものが非常に大きく評価づけされるのではないかというふうに期待します。


○宮里大八氏  そろそろ時間もちょっと過ぎておりますけれども、皆さんの今いただいたお話をまとめて、自分なりに整理をして、もう一度見直していきたいと思います。

 最後に、純先生が言われていた、住民の方々のことは住民で決めると。自治基本条例ですとか、それぞれに合ったルールですとか決まり事というのを、どんどん決めるような形で、その決まったものは沖縄自治州のほうで調整ですとか、意見を取りまとめて、それをやっていくというような仕組みをつくれればいいのかなとふうに思っています。

 あくまでも主役と言いますか、その主体になるのは、そこに住んでいる人々でしょうし、そこでたとえ7割の経済であろうとも、豊かに暮らしていけるという環境があれば、それは経済的効果よりも心の効果という豊かさというのにつながっていくと思います。それを文章にするのはとても難しいので、それはちょっと補足のような形で説明はしたいと思いますけれども、最終的にはやはり自治基本条例に基づくような形で、市町村は行っていきますと、それで自治州としては95条を適用した独自の自治の政策なり、基本姿勢を出していきますというような形で、この沖縄自治州と市町村との関係をまとめていきたいと思います。

 どうもありがとうございました。


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